講師プロフィール:少年時代に遡る、これまでの道のり
SALDRAの門を叩く方の多くは「自分にできるだろうか」という不安を抱えています。
しかし、私自身、かつてはダンスに対してあまりポジティブな印象を持たず、コミュニケーションが得意とは言えない人間でした。
そんな私の人生にどうサルサが関わったのか。
その歩みを紐解きます。
1. 南米エクアドルでの「予兆」と最初の記憶
1980年からの3年間、親の仕事で南米エクアドルに滞在しました。
外に出れば普通にスペイン語が飛び交い、家でテレビをつければスペイン語の番組に触れる生活は、無意識にも、少年だった私の中にラテン文化の”種”を植え付けたのだと思います。
サルサとの接点はまだ薄かったですが、当時テレビから流れてきたモダン・ロマンス(イギリスのポップ・バンド)の「Everybody Salsa」という曲はよく覚えています。
これはサルサではなく「ラテン風ポップス」でしたが、『サルサ』という言葉を初めて耳にしたのはこの曲からで、サルサは踊る音楽なんだと漠然と頭に残ったのだと思います。
他にも、後にサルサに興味を持つ土壌は、このエクアドルで育まれたのは間違いありません。
スペイン語曲に親しみが持てたという点では、この頃中南米諸国で熱狂的な人気を誇っていた、プエルトリコ出身の少年アイドル・グループ「メヌード(MENUDO)」の存在は大きかったと思います。
▲エクアドルはキト日本人学校旧校舎にて、屋上で飼っていたナマケモノ(先生がジャングルで拾ってきた笑)と。
この異国でのありのままの日常が、今の私の原点です。
余談ですが、近藤真彦さんのヒット曲「ギンギラギンにさりげなく」がスペイン語でカバーされてのをご存知ですか?
メキシコ出身の歌手Oscar Athieという人が「Conóceme」という曲名でカバーしています。
これもエクアドルのテレビで観たことがあります。
2. レスリングが教えてくれた、サルサに繋がるもの
意外に思われるかもしれませんが、帰国後の私はダンスとは全く接点がなく、むしろ「ダンスは男が踊るものじゃない」とさえ思っていました。
前述の通り、あまりコミュニケーションが得意ではなく、性格も明るくはありませんでした。
格闘技の世界に憧れがあり、高校時代はプロレス好きの流れでアマレス部に所属し、ダンスとは全く関係のないマットで汗を流していました。
しかし、これも今思えば、サルサとあながち無関係ではない経験だったのかも知れません。
というのも、キツい練習や減量を通じて、厳しい訓練の頑張り方を学んだのは、このレスリングからだったからです。
それに、これも意外なことですが、サルサと格闘技には似ている点があるという話は、格闘技に関心があるサルサダンサーの中ではよく語られるトピックです。
レスリングに関して言えば、組技の時の身のこなしや、プロレスで見られる関節技はサルサと通じるところがあると感じています。
もちろん、サルサで踊る相手の関節を決めるのは、もっての外ですが。
あと、プロレスラーが個性を重視するという点も、サルサと似ているなと思うところです。
いずれにしても、レスリングで学んだ「頑張り方」と「組技」は、先に経験したラテン文化に加え、後にサルサに出会い、のめり込む伏線だったのかも知れません。
3. サルサとの遭遇:1990年フィラデルフィア
1990年、留学先の米国フィラデルフィア市のラテンフェスティバルで、私は衝撃を受けます。
生バンドの熱狂、そしてステージの下で爆発するようにサルサを踊る人々の光景が、私の目の前で繰り広げられていたのです。
▲1990年(写真は91年のものかも知れない)、フィラデルフィア。ここでの熱狂的な体験が、
私のサルサ人生の原点となりました。
そのカッコよさと陽気さに、私の中で眠っていた「ラテンの血」が初めて騒ぎ出しました。
そして、思いました。
「自分は、変われるかも知れない。」
以来、そのフェスティバルに毎年足を運んだのは、言うまでもありません。
帰国間際のわずかな期間、地元の文化協会で習った人生初のサルサステップを踏んだ時の、あのぎこちない感覚は今でも忘れません。
▲1991年9月にフィラデルフィアでAMLAという協会の会員になり、念願のサルサ(とパーカッション)のレッスンに通う。
私のサルサ人生の記念すべき第一歩です。
私は今でこそ講師ですが、最初は誰もがそうであるように、サルサの右も左も分からない初心者でした。
🎵 私の心を潤したラテンアーティストたち
フィラデルフィア滞在中は、サルサを始めとするラテン音楽に生に触れる機会がかなりありました。サルサの有名どころとは知らずジョニーレイはフェスティバルのステージを、ウィリー・コロンは屋外の無料ライブを観ました。他にもグロリア・エステファンのコンサートはフィラデルフィアの会場で、そして、フアン・ルイス・ゲーラのコンサートは、ニューヨークへ足を運んで観に行きました。
4. 孤独を脱し、サルサに熱中、そしてLAサルサ留学へ
フィラデルフィアから帰国した私ですが、地元名古屋はまだサルサ不毛の地でした。
エクアドルへ渡航以降、名古屋に定住していなかったので、親しい友達もいなく、孤独でした。
数年間のブランクの後、1995年、ようやくサルサを語り合える仲間を見つけました。
そこから、孤独で暗かった自分に友達が増え、世界がどんどん色づいていきました。
変われている自分を実感できたのです。
無我夢中でレッスンに通い、ついには2000年、ロスアンゼルスへのサルサ留学を実現しました。
ロスアンゼルスでは、サルサ以外にもジャズやヒップホップなど他ジャンルのダンスを学び、ダンスへの理解を深める日々を過ごしました。
▲ロサンゼルス。本場のクラブやスタジオで踊り込み、
相手との繋がり(コネクション)と、踊る楽しさの本質を学んだ留学時代。
5. SALDRAの使命
LAから帰国後、2004年に地元名古屋でサルサ講師としてレッスンを開始しました。
最初はグループレッスンをしていましたが、徐々に、生徒さん一人ひとりのスキルアップに、もっと力を注ぎたいと思い始めました。
そして、自分が講師として、初心者からどこまで人を育てられるのか。
自分自身の挑戦として一人ひとりと深く向き合いたいとの想いから、現在の『マンツーマン』という形に辿り着きました。
勇気を持って一歩を踏み出す初心者の気持ちを私はリスペクトし、熱意を込めて応援します。
一人ひとりの歩幅に合わせ、呼吸を合わせ、時には一緒に悩みながらも、着実に上達へ導いていくやり方です。
初心者を集めるだけ集めるという考えでは、やっていません。
私が自分を変えたように、SALDRAは、自分を変えるために頑張る初心者の「拠り所」でありたいと思っています。
マンツーマンという特別な時間の中で、まだ見ぬ新しいあなたに出会うスタートを、ここから一緒に切りましょう。


